いじめに関する考察

これから書くことは、一つの仮説に過ぎず、「いじめ」の全てがこのように説明できると言っているのではないことをご理解頂いたうえでお読みください。
いじめについて考えることはとても難しいところがあります。 その理由は、いじめを定義することがとても難しいからです。 一般的に使われている「いじめ」という言葉を主語にして話をすると、その実体を曖昧にしたまま議論が進んでしまいがちになり、そこで目に付く「弱者と強者」という関係性ばかりに着目した議論に陥ってしまいがちなような気がします。

「いじめ」という言葉を別の言葉で表現する

そこで、まず、「いじめ」という言葉を、排除する事を試みてみます。 いじめとは、単純に場合分けすると、次の4つの場合が考えられます。
  受ける側の主観 働きかける側の主観
(1) いじめられていないと感じること いじめていないと感じること
(2) いじめられていないと感じること いじめていると感じること *1
(3) いじめられていると感じること いじめていないと感じること
(4) いじめられていると感じること いじめていると感じること
*1 いじめていると感じること : 実際の場面で(2)の状況があるのかどうかは分かりませんが、仮にあっても、本人が苦しくは無いので、特に考えなくても良いかもしれません。(ただ、本人が「つらい」ということに気付いていないだけの場合も多いような気がします。) 本当は苦しいのに、苦しくないことにして、立ち向かっている場合があります。 それには、苦しくないことにしなければやって来れなかった事情があるので、自分が苦しいと感じていることに気付けず、成人した後に、神経症やうつなどの状態に陥って、ようやく気付くようなことが多いと感じています。 苦しい事に気付いた時の衝撃は大きいことが多いので、一人で解決しようとせずに、迷わず、他の人の力を借りようとした方が良いと思います。
ですから、一括りに表現してしまっている「いじめ」は、実は(3)か(4)の状況に区別できることを、まず、理解しておくことが大切です。 ただ、この表では、まだ、「いじめ」という概念から離れていないので、「いじめ」という言葉を、他の言葉で表現しようとしてみます。 この表を、「いじめられていると感じる」「いじめられていないと感じる」かという違いは、受ける側の人が「つらい/イヤだ」と感じるとき、そのような気持ちにつながった行為のことを、受ける側にとって「いじめ」と表現していると解釈してみます。 また、「いじめていると感じる」「いじめていないと感じる」という働きかける側の感覚については、相手に対して「親しみの感覚」があるかどうかによって区別できると考えてみます。
  受ける側の主観 働きかける側の主観
(1) つらくない/イヤじゃない 親しみの感覚がある
(2) つらくない/イヤじゃない 親しみの感覚が無い
(3) つらい/イヤ 親しみの感覚がある
(4) つらい/イヤ 親しみの感覚が無い
このように表現してみると、「いじめ」という共通認識できる行為があるという雰囲気から離れて、個人個人の気持ちに焦点を当てて考えられるようになってくると思います。 (3)の場合、「いじめを無くす」為には、次のことをどのように実現するのかを、当事者同士が話し合えば、対処できそうな気がします。
  • 相手がどのように感じているのかを知る。
  • もし、その相手が「つらいと感じている」ということを知ったとき、その相手につらい思いをさせることは繰り返さないようにする
この場合の解決は、受ける側が「つらい」と感じていることを相手に伝える事から始まるということを念のために書き添えておきます。   しかし、(4)の場合は、更に掘り下げて考える必要があります。 相手に親しみの感情をもてないときに、人は、どのように対処する場合があるかというと、次の2通りが考えられると思います。
a). 特に関わろうとしない
b). 相手を排除しようとする
a).の場合は、一見、特に問題は無さそうなのですが、「受ける側の人」が、誰からも親しみを持たれなかった時に、孤立してしまう(ネグレクト)状況を生み出してしまう恐れがあり、その結果、辛く感じてしまうので、これもいわゆる「いじめ」状況を作り出してしまいます。 そこで、次の2つのことを理解することが大切だと考えています。
1). なぜ、親しみを持てない相手を排除しようとするのか?
2). どうして、誰からも親しみをもたれないようになってしまうのか?
この 1).と 2).を考えていくと、「いじめられる側」だけでなく、「いじめる側」の心も救われる必要性が浮かび上がってきます。

1).なぜ、親しみを持てない相手を排除しようとするのか?

これは、基本的には、「ストレスを感じたときに、それにどのように対応するのか」ということと同じように思います。 自分の心に意識が向けば、「自分はどうしてこんな事がイヤなのだろう!」「どうして、自分は我慢できないのだろう!」と自分を責める事になりがちです。 自分以外に意識が向けば、問題と認識する人を変えようとしたり、その人を排除しようとするしか、そのストレスに対処する方法はありません。 ここでは詳しくは説明しませんが、これは、神経症や恐怖症に陥る心理に似ています。 そこには、『自分の考えや気持ちを強く主張するしか解決する手段は無かった』という事情があるのだろうと考えています。 このような心理のとき、周りの力関係によっては、「変なやつ」というレッテルを貼られて、いついじめられる側に変わってもおかしく無い状況であるかもしれません。 「仲間」という集団によって「強者」の立場が形成されていた場合、その役割の変化は、割合容易に生じるのかもしれません。 人間関係に影響が大きそうな体力饒舌などの個人の能力によって「強者」の立場を維持できる人がいじめを行っていた場合は、役割の変化は起き難いかも知れませんが、学校という枠を離れて社会に出たときに、自然に生じる孤独といういじめによって、行き詰ってしまうのかもしれません。

2).どうして、誰からも親しみをもたれないようになってしまうのか?

おかしなことに興味を持っていても、それを相手に伝え、また、相手の興味を受け入れたりするようなコミュニケーションが出来ている場合は、「変わったやつ」と呼ばれても、そこには親しみのニアンスが含まれている場合がほとんどだと思います。 しかし、自分の考えや気持ち表明することが無いと、対する人にとっては、何を考えているのか分からない「変わったやつ」になってしまい、親しみをもってもらうことは難しいことが多いような気がします。 そこには、『自分の主張を飲み込むしか解決する道は無かった』という事情があるのだろうと考えています。 何も表現できなくなってしまい、その結果、その心境が、おどおどした態度として、表現されてしまうのかもしれません。 また、何も表現できなくなるほど追い詰められていない場合でも、とりあえず、ニコニコしたり笑ったりするしか出来なくなってしまっていることもあるかもしれません。 しかし、いつも愛想良く笑っていても、「何を考えているのか分からないらない」とレッテルを貼られてしまってもおかしくない微妙なラインで、一人孤独に戦っているような状態に置かれているのかもしれません。

学校生活の意義

いじめる側にも、いじめられる側にも、「自分の気持ちを普通に表現しても、相手に伝わらなかった」という事情があったということでは、心に持つ傷は同じなのだろうと思います。 私は、「いじめをなくす」というスローガンに、違和感を感じています。 安直に「いじめをなくせ」ということは、「嫌いな人を好きになれ」とか「つらくてもつらいと感じるな」と言っているのと同じことだと思います。 でも、苦手な人は苦手だし、つらいときはつらいのです。 それを言わさないようにするということは、彼らがそうなってしまった原因の『素直な気持ちを受けとめてもらえなかった』という環境を強化するだけだと思うのです。 仮に、学校生活において、「いじめ」と分類される行為をリストアップし、それらの行為を禁止したとしても、それらは自分の気持ちを偽って行動させる事でしかありません。 たとえそれが実現しても、本音の無いところの猿芝居をしながら学生生活を送ることになるだろうと思います。 社会に出たあと、そんな猿芝居を続けられるわけはありません。 「親しみを感じない人」との人間関係は避けて通るわけにはいきません。 学校は、社会の縮図です。 色々な人がいて、そのために、色々な人間関係の中での出来事が起こるのです。 ですから、学校生活は、社会に出てからの人間関係の予行演習になると思います。 学校での生活では、本当に多くの人間関係にさらされ、様々な出来事を経験することが出来ます。 もしかしたら、社会に出てから経験するほとんどのパターンを経験することができるのかもしれません。 ですから、そこで起きる出来事を防止するのでは、予行演習にならないと思います。 どんなつらいことが起こっても、そこから心が救われる練習をするのが、学校生活の本当の意味なのかもしれないと思います。 そして、学校生活の予行演習家庭です。 どんなつらいことが起こっても、そこから心が救われるという経験をすることが大切だと思うのです。 『心が救われる』、それは、一人きりで我慢したり、一人きりで頑張ることではないと思います。 【ヒント】 「おもちゃは買わない」と約束した自分の子供が、おもちゃ屋の前でダダをこねて泣いてしまったら、 みなさんは、どうしますか?
  • 子供におもちゃを買ってあげますか?
  • おもちゃを買ってあげずに我慢させますか?
たぶん、正しい対応はそのいずれでもないのだろうと思います。 みなさん、ここで一旦立ち止まって、「心が救われる」とはどういうことかを、ゆっくりと考えてみませんか? ※詳しいことは、「心のマニュアル」の説明を参考にしてみて下さい。(長くて、読み難いですが(^_^;)) 現在の社会の論調のままに対策を進めていけば、学生のためのいじめ禁止法ができるかもしれません。 しかし、そのような対処では、新たな歪を子供社会に生じさせるかもしれませんし、たとえ子供のうちは上手く規制できたとしても、そこでひたすら我慢を強いられていた子供たちが社会に出たとき、大人社会のいじめがより深刻な問題になりそうな気がしてなりません。 挙句には、「大人の為のいじめ禁止法」などを作るようなことになってしまうかもしれませんし、実は、既に、もう、その兆候は現れていると感じます。 法律で、行動だけでなく、気持ちまでが規制される世の中になってしまうのではないかと、本当に心配です。
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