08. 攝心(せっしん)のようす

坐禅会もそうだが、攝心の間は基本的に話をしてはいけないということになっている。 その理由は、「個人の修行の妨げになる」というものだった。 坐禅の修行をしようとする人たちは、「意味の世界から離れ、本来の自分自身を見つける」ということを目標にしている。 言葉というものは意味の象徴みたいなもので、それを口にした時点で、意味の世界に引き戻されてしまうと考えるのだろう。 攝心では、言葉を排除することは徹底されていた。 坐禅の始まりと終わりは鐘の音で知らされる。 食事は拍子木の音で始まり拍子木の音で終わる。 (ただ、初心者への説明は言葉でしてくれる。初心者にまで、「言葉一切厳禁」を迫る様子はなかった。)

人と接すること

日常生活においては、「あのひとは、××な人だ」とか「あの人の○○なところは苦手だ」とか「あの人の△△なところは好感が持てる」とか、なんとなく評価してしまいがちなのだが、会話を持たず、それぞれが黙々と目の前のことを行い、そして座り続ける攝心においては、そんなことを感じる余地はない。 ただ、その人の存在を感じた。 わかりにくいかもしれないが「それ以上でもなくそれ以下でもない。」 そんな感じがした。

食べること

食べるときも当然無言だ。ただひたすらに食べる。 「食べる」というより「食らう」という方がふさわしい気がした。

夕食のようす

老師が初めて参加した人たちのために、「途中お代わりの時間を設けますから・・・」と話し、合掌しご飯のおわんを高く持ち上げ食事が始まった。 「お代わりの時間???」私の頭は不思議でいっぱいになっていた。 大中小のおわんが左から一直線に並んでいた。 左から、ご飯、味噌汁、漬け物の順だ。 必ず、食べるものの入ったおわんを手に取って食べ、取ったおわんは元の場所に一直線になるように戻す。 ご飯を食べながら漬け物をつつくなんてことは厳禁だ。 5分くらい経過すると、老師が箸を置き、他の人たちもそれに合わせて箸を置いていった。 私はまだ途中だったが、「これで食事はおしまいかぁ~」と寂しさを感じながら他のみんなに合わせた。 老師が言った、「では、お代わりをしたい人はどうぞ」。 「へぇー、これがお代わりの時間なんだぁ~」心の中で感心した。 こんな些細な行為が、私の中では想像を絶していたのだった。 沢庵は一切れ残しておく。 みんなが食べ終わると、おわんにお湯を注ぎ始める。 大きなおわんに程よくお湯を注ぎ、残しておいた沢庵できれいに洗う。 次に中ぐらいのおわんにそのお湯を移して、また沢庵で洗い、小さなおわんまで洗い終わったらそのお湯を飲み干して、沢庵を口に放り込む。 「ボリボリボリ」という全員が沢庵をかむ音がしばらく響き渡った。 ちょっとおもしろい情景だった

坐ること

薄暗い坐禅堂で壁に向かってひたすらに坐る。 坐りなれていないので、足は痛いし、肩もこり、非常に苦痛だった。 加えて、壁の模様が、人の顔に見えてみたり、色々な文字に見えてみたり。 睡魔は襲ってくる。 夢か幻覚かわからないような感じで映像も次から次へと浮かんでくる。 客観的に坐っている様子をみれば「静」なのだろうが、心の中は非常に騒がしかった。 坐禅が始まり、坐禅が終わり、始まり、終わりということを繰り返していると、はじめと終わりの意味がわからなくなってきた。 そんな中で、初日の独参のときに老師から聞いた言葉を理解できた気がした。 「自分が自分である至福、暇でつまらないなんて、いったいどこにお出かけか?」 そんなことを禅では言っているのかもしれないと思った。
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