11. カウンセラーの座禅体験記(その9)

坐禅会に、参加しましてきました。(2004年01月11日)

老師の話

意味や価値がもとからあったように、私たちはその中で暮らしている。 お釈迦さんはそこから抜け出そうとして何年も苦行をしたが、「何年苦行した」とか「どんな苦行をした」という事では、結局意味の世界から抜け出せていないことに気づき、苦行をやめた。 そして、木下で静かに座っていて、明けの明星を見たときに悟った。 座禅では、何もしないでただ座る。 そして、私たちは何もしないでいることに、空虚を感じてしまう。 これは、意味と比べて空虚ということ。 「私は座禅をする」というのでは今までの延長に過ぎない。 主語と述語の世界、すなわち意味の世界から離れ、今までは「何かであった自分」が、「何でもない自分」、つまり「本当の自分」に気づいては如何でしょうか。

公案:佛向上事

洞山は修行僧に言った。
洞山: 私は、仏のことを体得したので、少しばかり言葉を使う資格がある。
修行僧: 言葉とは何ですか?
洞山: 話しているとき、私は聞きませんよ
修行僧: それでは和尚は、今、聞いているのですか、聞いていないのですか?
洞山: 私が話さないときに聞きなさい


独参

私 : 「意味の世界から離れることができたが、それを話そうとすると意味の世界に戻ってしまう」ということを言っている。
老師 : 今回の公案はわかりやすい。 しかし、それがわかったというのは、「月をさす指」がわかったということ。 月を見なさい。
私 : 公案に答えようとすると言葉を使うから意味の世界から離れることはできない。 言葉を使わないでおこうとして、「ピヨピヨピヨ」と言ったところで仕方がない。 私は、独参に来て、いったい何をすればよいのでしょうか?
老師 : 近いところにいるのかもしれない。 また話しに来て下さい。
私 : ・・・・・・・
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